こんにちは、榊原です。今日は、本の紹介です。國分巧一朗さん著作の「暇と退屈の倫理学」についてご紹介します。
この本は、こんな人におすすめです。
〇毎日が繰り返しになっていることに苦痛を感じている人
〇自分だけの使命、宿命を求めている人
目次
概要
「暇と退屈の倫理学」は、ハイデガー、ラッセル、パスカルなどの退屈に関する議論を参考にして、退屈という気分の正体を分析しています。退屈がどういうときに引き起こされるのか、そしてそれは何が原因なのか。
退屈というぼんやりとした気分を、①電車で待っているとき、②パーティーの最中③何となくという三類型に分け、それぞれについての具体的な考察が、一つ一つこちらの共感を呼びます。
革命を起こす必要がない世界で生きる
参考文献であるラッセル著作の「幸福論」においては、ざっくりと下記の論旨が書かれているそうです
熱意をもった生活を送れることが幸福である。使命感に燃えて事を為す必要がある劣悪な世界に生きる人間は幸福であるが、やるべきことが残っていない豊かな世界に生きる人間は不幸である。
かなりおかしな論旨ではあります。この理屈だと、不遇な状況にあることが幸福であるということなのですから。それでも、運命的な物事が自分に起こって欲しいと憧れたことのある人なら、「そうかもしれない」と考えてしまうのではないでしょうか。
魔法人グルグルというファンタジーマンガで、主人公が父親から「俺は勇者になりたかったが、その時は魔王がいなかった。今は魔王がいるから、お前は幸せである」旨の言葉を受けます。
この言葉はギャグとして書かれていますが、自分の全てをかけて是正すべき不条理があって欲しい、命を懸ける大義が欲しいという願望を持つ人はいるでしょう。
暇と退屈の倫理学では、そういう使命や大義に狂奔する姿に憧れる心は、横たわる退屈から免れている(ように見える)からだと喝破しています。
例えば、学生運動の流行が、エネルギーの有る若者が、退屈を持て余したためだったということが考えられます。主張のためなら暴力さえ辞さない人もいましたが、果たして彼らの全てが自分の主張する考えに対してどれほど理解していたのか、はなはだ怪しいところです。
ミステリー作家の七尾与史さんが、「三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実」という映画のレビュー中で、1960年代にやネットフリックスなどの娯楽があれば、学生運動は起こらなかったのではないかと話していました(4分40秒から5分10秒の辺り)。これは結構的を射た意見だと思います。
終わりに
「今を楽しめないのは何故か」を考察するとともに、「楽しむにはどうすればいいか」という提案を楽しめる思考実験の本となっています。
以前紹介した飲茶さんの本で紹介した「最強のニーチェ」につながる部分がありますので、あちらを楽しめた方は、暇と退屈の倫理学も一読の価値ありです。
それでは、また!